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マルクーゼ『エロス的文明』[1956=1958]紀伊国屋書店

 

・【イド】無意識の領域、一次的な本能。

・【リビドー(libido)】精神生活のなかへの性的衝動の力動的発現。

・【超自我(superego, Über-Ich)】自我を裁く心的審級。道徳的に行為を抑制し、後悔を生じさせる。

・【エロス(eros)】生の衝動。生命の統一性を構築する。その中心は性衝動である。

・【タナトス(thanatos)】死の衝動。生命を無機物の状態へと還元する傾向。

 

 

序論

・フロイトによれば、文明は人間の本能を永久に抑圧する。幸福は文化価値ではない。しかし、自由と抑圧、生産性と破壊、支配と進歩の相互関係が、はたして文明の原則をつくるべきものなのだろうか。→抑圧のない文明をめざすべき。(1-2)

・【本能】歴史的な条件によって変容される、身体の基本的な「動因」を意味する。(5)生命過程に方向を与える決定力としての「生命原則」として定義される。(23)

・【文化】=【文明】

 

 

第一部 現実原則の支配の下に

第一章 精神分析における隠れた傾向

◆文明=抑圧説

・「フロイトによれば、人間の歴史は、抑圧の歴史である。文化は……本能の構造それ自体を制約する。しかも、その制約こそ進歩の前提なのである。人間の基本的な本能は、自然の目標を追求するのに任せておけば、すべての永続的な結合と維持に反するだけでなく、統一を破壊してしまう。コントロールされないエロスは、その恐ろしい相手である死の本能と同様に、致命的である。……文明は、欲求の全面的な満足という、原本的な目標を効果的に禁止するときからはじまる。」(9)

 

◆快楽原則(本能)から現実原則(文明)へ(フロイトの図式)

即座の満足 → 遅延された満足

快楽    → 快楽の制限

喜び(遊び)→ 苦しみ(仕事)

受動性   → 生産性

抑圧の欠如 → 安全の保障

・「現実原則によって、人間は、理性の機能を発達させる。理性は、現実を『テスト』し、善と悪、真実と虚偽、有用なものと有害なものを区別することを学ぶ。」(11)

・経済的な「欠乏」は、快楽原則に従って生きるわけにはいかないことを教える。

・「無意識は、パーソナリティの内部で、もっとも深い、もっとも古い層であり、欠乏と抑圧のない、完全な満足をめざす動因そのものである。無意識では、自由と必然が一致する。」(15)

・抑圧をともなう心的構造の発達は、@個体発生レベルと、A系統発生レベル(文明)の二つのレベルで分析することができる。

 

 

第二章 抑圧された個人の起源(個体発生)

・エロスと死は、二つの基本的本能である。フロイトは、本能生活に基本的な、退行的・保存的な傾向があることを発見した。(20)

・現実原則によって、性欲の抑圧的な組織が発達する。→生殖的な性欲への変形。一夫一婦制は、生殖のための手段として性欲を従属させる。(34-35)

・「自由なエロス」:社会関係の過剰抑圧に関する組織だけに反抗するもの。(37)

・快楽原則の否定としての疎外された労働(39)→肉体の非性化(41)

・「性欲は、本来、『多形的・倒錯的』である。性本能の社会的な組織は、生殖に奉仕し、生殖を準備しないような性本能の現れを、すべて倒錯として禁止する。倒錯は、非常に厳しく禁止されなければ、文化の発達の土台になっている昇華に反抗するだろう。」(42)

・リビドーの文化的な課題=破壊的な本能を無害にすること(43)

 

 

第三章 抑圧的な文明の起源(系統発生)

◆抑圧による自律

・「個人の自律的なパーソナリティは、人類に一般的な抑圧の凍結された表現として、あらわれる。自意識と理性は、歴史的な世界を征服し、形成したが、それは、内部的な、あるいは外部的な抑圧のイメージのなかで行なわれてきた。」(48)

 

◆原父

・「人類の生活は、支配によって組織された。そうして、他人を支配することに成功した人間は、父であった。彼は自分が望む女性たちを所有し、彼女らとのあいだに息子や娘を儲け、育ててきた。父は女性を独占し、成員たちを彼の権力に服従させた。……快楽の独占は、苦痛の平等な分配を意味した。」→「父」による支配は、快楽の束縛と強制的・禁欲的な労働によって、文明の基礎を築いた。(52)

・「自分が父になりかわり、父をまね、父と同一化(取り入れ)し、その快楽と権力を得たいという願い」(53)

・父権による禁圧を憎む気持ち。→集団の手で父を殺し、兄弟による部族を確立する。→殺害した父は神としてあがめられ、社会道徳を生みだすタブーと禁制が導入される。「集団を全体として維持するという共通の利害から、抑圧が実行される。」→罪の感情の発達によって、さまざまな禁止、束縛、満足の延期が個人のなかに注ぎ込まれる。(54)

 

◆エロスの自由=支配からの自由

・フロイトの仮説では、母権制の前に原始的な家父長制の専制主義がある。

・「抑圧的な支配の低い段階や、広範囲にわたるエロスの自由は、伝統的に母権制と結びついているが、フロイトの仮説によると、それは原初的な『自然』状態としてよりも、家父長的な専制主義が反乱した結果としてあらわれる。文明の発達において、自由は、解放としてだけ可能である。自由は、支配の後に来る。」(56)

 

 

第四章 文明の弁証法

◆罪悪感と諦め

・「フロイトは、罪悪感が、文明の発達に決定的な役割を果たしているとし、さらに、しだいに増大している罪の感情と進歩との相互関係を確立する。彼は、『罪悪感が、文明の進歩にもっとも重要な問題であり、文明は、その進歩の代価として、罪悪感を高めることによって、幸福を失う』と主張する。」(68)

・「あきらめは、いずれも良心のダイナミックな源泉になる。満足を新しく放棄するたびに、良心は、厳しさを増し、ますます寛容ではなくなる。……満足を断念された攻撃の衝動は、すべて、超自我に引き継がれて、超自我の(自我に対する)攻撃性を高めようとする。」(69)

 

◆文明の労働

・「文明は、何よりもまず、仕事、つまり、生活の必需品を獲得し、増大させる仕事の進歩である。この労働そのものは、ふつう、満足をともなわない。……文明における基本的な仕事は、非リビドー的であり、それが労働である。労働は『不快なもの』で、このような不快さは、強制される必要がある。……仕事に対するエネルギーを、原初的な本能、つまり、性欲の本能と破壊の本能から『引き揚げ』なければならない。」(72)

・「エロスが生殖的・一夫一婦制の性欲に還元されること(つまり、快楽原則が現実原則にまったく服従させられること)は、歴史的には、個人が彼の属している社会機構のなかで、労働の主体・客体になるとき、はじめて完全に実現される。いっぽう、個体発生的にいうと、小児性欲の最初の禁圧が、これを成就させるための前提条件となっている。」(78-79)

 

◆文化の自己破壊

・「文化は、昇華が連続されることを要求し、それによって、文化の作り手であるエロスを弱める。そうして非性化は、エロスを弱めることで、破壊的な衝動を解放する。こうして、死の本能が生の本能を支配しようと努めている本能の遊離によって、文明がおびやかされる。諦めから生まれ、諦めの進行を通じて発展しようとしながら、文明は、自己破壊に向かっていく。」(73)これはフロイトの仮説である。

 

◆抑圧と疎外から、社会体制の全面否定へ

・「増大していく生産性を、抑圧の減少に使わなければ、……生産性は、個人に対抗するものとなろう。それは普遍的なコントロールの一手段となる。支配勢力が生産性を支配し、生産力の発展する可能性を妨げ、逸らすところでは、どこでも、全体主義が後期産業文明に君臨する。」(82)

・「性と社会的効用とのあいだの根本的な敵対関係は、快楽原則と現実原則との葛藤の反映であるが、現実原則が快楽原則を侵略していくにつれて、あいまいになってくる。疎外された世界では、エロスの解放も、必然的に、破壊的、決定的な力として、抑圧的な現実支配の原則を全面的に否定するものとして、はたらく。」(82-83)

 

◆家族の弱体化と行政機構の強化

・「家族は以前ほど決定的な力を持たないので、父・子の葛藤は、もう典型的な葛藤ではない。この変化は、今世紀の初めからおこった『自由な』資本主義から、『組織された』資本主義への移行を特徴づける、根本的な経済過程に由来している。」→家族の社会的機能の低下。(83-84)

・「父は、エディプス状況で、最初の攻撃目標であったが、後には、むしろ、攻撃の対象としては、取るに足らないものになってくる。富、技術、経験の伝達者としての父の権威は、非常に弱くなっている。」→「支配が行政機構という客観的な存在として凝結してくると、超自我の発達を導くさまざまなイメージも、個人ではなくなる。かつて超自我は、主人、首領、首長によって『養われ』、彼らのような現実の個人のなかに現実原則が表現されていた。」(85)

 

 

第二部 現実原則のかなたに

第六章 確立された現実原則の歴史的限界

◆現実原則についての仮説

@「現実原則による文明の進歩そのものが、本能のエネルギーを疎外された労働に注がせる社会的要求を、かなり減少させるような生産性の段階に達した。したがって、本能を抑圧する組織を存続させる必要は、支配者の利害関係からであるようにみえる。」(117-18)

A「西洋文明の代表的な哲学は、現実原則をきわだった特徴としている。……もし現実原則が、ただ、現実原則のある特定な歴史的形態にすぎないならば、文明についての彼の弁証法は、その決定的な根拠を失うだろう。」(118)

 

◆フロイトによる文明発展の図式

第一段階 無機物

第二段階 生命の起源、快楽原則

第三段階 ゆるむことのない緊張の発生。「生命にとって以前より『満足』が少なく、苦痛が多いという『経験』から、退行を通じてこの緊張をゆるめる動因として、死の本能が、生まれてくる。こうして死の本能は、基本的な欲求不満の外傷の結果としてあらわれる。」(123-24)

第四段階 退行への脅迫

第五段階 「エロス=生殖細胞の結合」と

     「死の本能:破壊衝動=無機物へ戻ろうとする動因」

第六段階 「エロス」は、組織化され、昇華されて、「性欲」となる。現実原則=文明。「死の本能」は、内面的・外面的な「攻撃」となる。欠乏から、意識的な生存競争へ。性本能の抑圧的なコントロールを押し進めるとともに、死の本能を、社会的に有用な攻撃と道徳に変形する。本能の組織化は、分業、進歩、法、秩序を作りだした。

第七段階 集団の形成、人間と自然の支配。

 

 

第七章 空想とユートピア

◆現実と空想

・現実は「理性が支配するようになる。それは不愉快であるが、有用で正しい。いっぽう空想は愉快なものではあるが、役に立たず、偽りである。それはたんなる遊びであり、白昼夢である。このようにして、空想は、快楽原則の言葉を、抑圧からの自由、禁じられた欲望と満足の言葉を語り続ける。しかし、現実は理性の法則にしたがって進み、もはや夢の言葉では語らない。」(129)

・「空想は、根本的な、独立した心的過程として、それ自身の経験に対応する真実の価値をもつ。それはつまり、敵対的な人間的現実を打ち破ることである。」(130)

・「現実原則によって、自由と幸福に課せられたさまざまな限界を、究極的なものとして受け入れるのを拒否し、ありうる事柄を忘れまいとするところに、空想の本来の機能がある。」(134-35)

・「現実のなかにひそむさまざまな可能性を、ユートピアの無人島へ追いやること自体が、実行原則のイデオロギーがもつ本質的な要素である。」(136)

・実行原則の否定は、文明が最高度に成熟することを前提としている。

 

◆エロス的文明の構想

・本能に過剰抑圧がない。労苦なしに満足が得られる。(138)

・労働日を短くすることが自由のための条件である。

・支配からの解放。「快楽原則と現実原則の敵対的な関係は、快楽原則にとって有利なように変えられるだろう。そうしてエロス、つまり生の本能は、かつてみられなかったほど解放されるだろう。」(139)

→そうなると文明は野蛮状態に戻るのだろうか。

→答え:「現在ひろく行なわれている本能の抑圧は、労働の必要から生じたというより、むしろ、支配の利益を守るために押しつけられた、ある特定な労働の社会組織から生じたものであり、抑圧は大部分、過剰抑圧である。だから、過剰抑圧の排除は、もともと、労働の排除ではなく、人間を労働の一つの道具にしようとする組織の排除に向かうのである。もしそうだとすれば、抑圧のない現実原則の発生は、労働の社会組織を破壊するよりも、変更することになろう。つまり、エロスの解放は、永続できる新しい仕事の関係を作りだすことができるだろう。」(140)

→労働の全面的なオートメーション化と、労働以外の時間における自由と充足を要求(142)

 

 

第九章 美の秩序

◆美的であることの機能

・【美的】:「感覚による真理を保存し、自由という現実のなかで、人間の『より低い』能力と『より高い』能力、感性と知性、快楽と理性を和解させる領域を指している。」(157-58)

→「秩序が美であり、仕事が遊びであるような美的な態度で、人間と自然をエロス的に和解(結合)すること」(160)→「この次元での基本的な体験は、概念的であるというより、むしろ感覚的である。美的感覚は、本質的に直観であって、観念ではない。……それか快楽を与え、またそれゆえ、本質的に主観的である。しかし、この快楽は、対象そのものの純粋な形式によって生じるかぎり、知覚するどのような主体の場合にも、普遍的、必然的に、美の知覚をともなう。……美的な想像のなかで、感性は、一つの客観的な秩序のために、普遍的妥当性をもつ原則を生みだす。」「この秩序を規定する二つの主なカテゴリーは、『目的なき合理性』と『法則なき合法則性』である。……目的なき合目的性は美の構造を規定し、法なき合法則性は自由の構造を規定する。」(161)

・「美による和解は、理性の専制に反対するものとして、感性を強化することを意味し、そうして、けっきょくは、理性の抑圧的な支配から、感性を解放することを要求しさえする。」(164)

 

◆芸術による解放

・「肉感性(sensuousness)から感性(感覚的認識)、さらに芸術(美学)へと概念が展開していく背後の現実は、何だろうか。」「感覚はエロスと結びついており、快楽原則によって支配される。このように、認識の機能と肉体的な欲望の機能とが混合しているところから、感覚的認識に特有な、混乱した、下等な、受動的な性質が派生してくる。そこで、感覚的認識は、知性または理性による観念的な認識に従属し、形成されなければ、現実原則にそぐわないものになってしまう。」(167)→「芸術は、支配的な、理性の原則に挑戦する。感性の秩序を表現する際に、それは、抑圧の論理に対抗して、タブーとされた満足の論理に訴える。……概念によらない感覚の真理が、美的価値として神聖化されると、創造的な想像力の『自由なはたらき』は現実原則からの束縛を解かれる。」(168)

・「遊びの衝動」(シラー)→「真に人間的な文明では、人間存在は労苦よりも遊びであり、人間は欲求のなかよりも、仮象のなかに生きるであろう。」(171)

・「しかしここでは、美的機能が、人間の全存在を支配する一原則として考えられ、またそうなるのは、それが『普遍的』になる場合に限られている。美的な文化は、『知覚と感情の様式における全面的な変革』を前提とし、文明が物質的にも知的にも成熟の極に達したときにだけ、このような変革は可能になる。」(172)

→理性の専制を排除し、感性の権利を回復しなければならない。(シラーの見解でもある)

・「『美の王国』が実際に自由の王国であるならば、それは、どうしても、時間の破壊的なコースを破らなければならない。……このようにして、シラーは、『時間のなかで時間を放棄し』、『存在と生成、変化と恒常性とを和解させる』機能を、解放の役割をする遊びの衝動に帰する。」→ユングは、抑圧からの解放は「野蛮」に至ると警告した。しかしシラーは、それがより高い文化に導くならば、受け入れるだろう。(174)

・抑圧のない秩序とは、豊かさの秩序であり、「余剰」から生じる。労働の組織化と時間の節約化によって、自由な時間を作りだす。自由の王国は必然の王国を越える。(176-77)

 

 

第10章 性のエロスへの変形

◆野蛮への退却

「抑圧的でない現実原則が、本能の解放をともなってあらわれると、それは、文明化された合理性が到達したレベル以前に退行する。」(180)

→「抑圧的でない秩序は、……成熟した個人のあいだに永続するエロス的な関係をつくりだすことができるとき、はじめて可能になる。われわれは、すべての過剰抑圧を除いたうえで、性本能が、文明化された自由のより高い形態への進歩と折り合うだけでなく、それをうながしさえする、『リビドー的な合理性』を発達させることができるかどうかを問題にすべきである。」(180-81)

・「実行原則の支配するところでは、個人の肉体にリビドーを定着させること、他の人たちとリビドー的な関係を持つことは、ふつう余暇の時間に限られ、性器による性交の準備と実行に向けられている。」(181)→文明化は、肉体のたんなる享楽をタブー視し、性は愛によって尊厳を与えられるべきものとした。これは現実原則による抑圧の結果である。

 

◆肉体の再性化

・「性器以前の多様な性欲が復活して、性器の優位が失われる。肉体の全部が性的接触の対象となり、享受されるもの、快楽の手段になるだろう。……とりわけ一夫一婦制と夫権の家族制度が崩壊することになるだろう。」(182-83)→「パーソナリティ全体のエロス化への変形」:束縛された性の解放ではなくて、リビドーの自由な発展。→性からエロスへと概念が変形する。→リビドーに内在的な文化化の傾向は、性器から遠ざけ、生体全部をエロス化する。(188)

・「抑圧的な昇華が文化を支配し、規定するところでは、非抑圧的な昇華は、社会的な有用性の領域全体と矛盾したかたちで、あらわれるにすぎない。その領域からみれば、非抑圧的な昇華は、社会的に承認されている生産性と作業のすべてを否定することである。」(188)「生体の肉体的な部分と精神的な部分を敵対者として分離すること自体が、抑圧の結果である」(190)

・プラトンの『饗宴』:「肉体的な愛にはじまって、一人の対象から次の対象へと、エロスの充足は上昇しつづけ、美しい仕事と遊びの愛を経て、そうして、最後に美しい知恵の愛に到達する。『高次の文化』への道は、少年の真の愛情を通じて、開けている。精神的な『生殖』は、肉体的な生殖とまったく同様にエロスの仕事であり、ポリスの正しくて真実の秩序は、……エロス的な秩序である。エロスの文化を作る力は、非抑圧的な昇華である。」(191)→オルフェウスとナルキッソス

・生体の絶え間ない洗練、労苦の破棄、余裕のある生活の創造へ。(191-92)

・フーリエの社会主義ユートピア:労働を快楽に変形してリビドー的な集団を形成すること。しかもそれを行政組織によって達成すること。(196-97)

□フーリエ(1772-1837):主著『家庭的農業的協同社会概論』(1882)およびこれを要約した『産業的協同社会的新世界』(1829)。「愛の新世界」(未完の原稿。『中央公論』19727月号に抄訳あり)によれば、一組の男女に限られた愛は個人のエゴイズムにすぎず、性愛は集団化・多形倒錯化しなければならない。フーリエは、オナニスム、同性愛、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、覗見(シケン)症、近親相姦などの奇癖を擁護・賞揚し、多様なエロティシズムの開花によって文明を創造することを主張した。

 

 

第11章 エロスとタナトス

◆エロス

・「非抑圧的な条件の下では、性はエロス『にまで成長』する傾向がある。」(201)

・「エロスは、それ自身の言葉で、理性を定義しなおす。そこで理性的なものとは、満足の秩序を維持していくものとされる。」(203)

・「エロスの内部に『自然的な』自己抑制があり、その本当の満足が延期、回り道、そして中止を呼び起こすのではないだろうか。そうだとすれば、妨害や制限は、抑圧的な現実原則によって、外部から押しつけられるのではなく、内部にあるリビドー的な価値のために。本能自体によってつくられ、承認されることになる。」(205)

 

◆タナトス

・「死の苛酷な事実は、抑圧的でない存在の現実を、完全に否定する。死は、時間の最終的な否定性であり、『喜びは永久性を欲する』からである。無時間性は、快楽の理想である。」(209)→時間を停止すること、死を克服することは不可能である。

・「死は本能の目標ではなくなるだろう。それは一つの事実として、おそらく一つの決定的な必然性として残る。しかしその必然性に対して、人類の抑圧されないエネルギーは抗議し、それに対して、人類は最大のたたかいを挑むであろう。」(213)

 

■フロイト(1856-1939)修正主義

・修正主義の左派:W.ライヒ(1897-1957)『性道徳の破壊』(1931)。性の解放によって、社会の支配−搾取関係と精神の病を解決できる。社会主義になれば抑圧はなくなるとする。

・修正主義の右派:C.ユング(1875-1961)。エロスは、無意識に働く権力衝動である。これはロゴスによる理性的権力と対立する。

・修正主義の中道派:E.フロム(1900-1980)『自由からの逃走』

 

■アドルノらの『権威主義的パーソナリティ』[1950=1962]

・ファシズムの担い手となる権威主義的パーソナリティ⇔ファシズムに抵抗する民主主義的なパーソナリティ。この違いは、両親と家族環境によって規定されるという結論に到達した。【権威主義的パーソナリティ】とは、権力ある者へは無批判に従属や同調を示し、弱い者に対しては力を誇示して服従させる。迷信や因襲を尊重し、人種的偏見をもち、性的抑圧が強い。

□反民主主義的=ファシズム的な宣伝を受容しやすい態度

@因襲主義。慣習化した中産階級の諸価値に対する固着

A権威主義的従属。集団内部の理想化された道徳的権威への、追従的、無批判的態度

B権威主義的攻撃。慣習に反する人を見つけて非難し、排除し、処罰する傾向。

C反内省的態度。主体性、想像力、柔軟な精神に対する敵対

D迷信とステレオタイプ。固定したカテゴリーで思考する傾向

E権威と剛直。権力者への自己同一化。

F破壊性とシニシズム。人間的なものへの敵意と悪意。

G投影。粗野で危険なものが世界に増大しつつあると信じ込む傾向

H性。性的な行為への誇張された関心。

□ファシズム的な家族関係の特徴

@両親を理想化する傾向。とくに身体的・外面的な特徴を賛美すること

A女性の場合、両親によって無視された、不当に扱われたという感情。

B両親の権威への無批判な従属

C父親を「近寄り難く厳格」とみている。

 

■林道義『父性の復権』中公新書[1996]

・「権威主義」はいけないが、しかし適当な「権威」は必要である。

→権威喪失の悪影響

@無秩序(アノミー)な競争と嫉妬。「友達のような父親」には、父が権威をもって提示する価値観がないので、子供は無秩序状態に陥り、暴力的になるか無気力になる。

A現代の「いじめ」は、権威的な父性による抑圧から生まれるのではなく、先生の権威に訴える(=チクる)ことがないために生じている。

Bわが身の安全のみを願い、正義や勇気という徳目には無関心な、母性のマイナス面が支配している。

C無脊椎人間としての学生。あくび、居眠り、おしゃべり、遅刻など、規律のなさ。

Dアパシーは、母性優位で父性の貧しい家族環境から生まれる。内的な父性と、母親から離脱することが大切である。父性不在の母子共生が問題である。

 

■フロム『自由からの逃走』[1941]

・消極的自由(行為が本能的に決定されることからの自由)→積極的自由(自己支配)への成長過程を想定する。この過程で、第一次的絆が失われ、生活の意味喪失、孤独、不安が生じ、自由から逃走したくなる。積極的自由に進むことができない。そこで、不安から救い出してくれるような人間や外界に絶対的に服従し、それらと関係を結ぼうとする傾向が生まれる。→ルター、ヒトラー。

・資本や市場や競争の役割が増大、束縛からの自由→「新しい自由は必然的に、動揺、無力、孤独、不安の感情を生みだす。」(72)

・ルターは権威主義的性格であった。極度の孤独感、無力感、罪悪感に満ちているとともに、一方ではげしい支配欲をもっていた。(75)

・孤独・不安→個人は疑いと無力さの感情を克服するために、熱狂的に活動しなければならない。強迫神経症的な、がむしゃらに働こうとする衝動の発達。(99-102)

・「新しい性格特性はもともとは新しい経済力の脅威に対する反作用として発達したものであるが、やがて徐々に新しい経済的発展を促進強化する生産的な力となっていく。」(110)

・自己支配から社会支配(計画経済)へ(134-35)、民主主義的社会主義の理想(298-99)

・個人的自由の重荷から逃れようとする二つの傾向:マゾヒズムとサディズム=権威主義的性格(160-):□支配服従関係による安定性の創出。

・匿名の権威による支配:常識、科学、世論、精神の健康、正常性(185)

・ヒトラーは、労働者階級や下層中産階級の利害を利用した。下層中産階級は、強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、カネについても感情についてもけちくさいこと、禁欲主義、独占資本への隷属状態、という特徴をもっている。→恐慌の発生→無力な人間を支配しようとする渇望と隷属しようとする渇望→ヒトラーへの支持。ヒトラーによれば、「大衆が欲するのは強者の勝利と弱者の殲滅(センメツ)あるいは無条件降伏である。」「弱い男を支配するよりも支配者を愛し、自由を与えられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。」(244)

 

■アドルフ・ヒトラー『わが闘争(上・下)』角川文庫(\700/\780)は、父性と権威主義を考えるうえで重要な資料。